働くと云う事は、学も無い僕には
町工場で汗を流すイメージしか想像できなかった。
デザインの専門学校(本科2年制)へ入学をしたものの
卒業後の進路など、ナ〜ンも考える事なくデッサンやらデザインの基礎
溝サシ(溝の付いた尺:昔は竹のサシにも付いていた)、
烏口(ペンの様な物)の使い方やらを一般の美術時間の如く
得意な事なので楽しく毎日を過ごしていた。
卒業を控えた2年生の暮れのある日、
先生に作品をファイルにまとめて来る様に云われ(何のコッチャ〜?)の
疑問も持つ事無く僕は(この時はまだ16歳の素直で純な少年:笑)翌日先生の基へ
連れていかれた所は大阪の天満橋にある日刊工業新聞社
(現在、大阪テレビ局が有る所の方が分かりやすいか・・)の
裏に有る少々薄汚れたビルの4階。
デザイン事務所の面接であった。
学校の授業と実社会の仕事の点と点として結び、組み立てる事等
当時のぼくには出来なかったのであるが、
常に授業の作品の評価はAで(咳払い:笑)そのデザイン事務所に即採用が決定した。
ネクタイを締め、サッソウと通勤する自分の姿を想像して・・・嬉しくて、
初任給の話しも上の空で聞いていたが
提示された金額が エエッエ、なななんと「そんなに貰えるのですか」と云っていた。
*当時の大卒の初任給と同じ金額(27.000円)
1970,EXPO70大阪万博の前年の年の事です。
しかし給与の額よりも何よりも、
この時程 絵を描く事の才能を有り難く思ったことはない。ホント、感謝感謝である。
就職先も決り「ホッと一服」
煙草のおいしさに目覚める。